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明教寺の歴史

明教寺建立の歴史

開祖は今から約600年前、大内義隆(法名「宗意」)の家臣・多田羅守人(藤原正信の子)である。

多田羅守人は、天台宗を信仰していたが、75歳の時に家が埋没し、父母の死を思い、人のはかなさ、定めがないこの世を悲観した。親の弔いを求めて浄土真宗の仏門に入る。

多田羅守人は1635(寛永12)年、大内義隆が本願寺第12代門主・准如上人の弟子となり京都に赴く際に同行し、浄土真宗の教えを学ぶ。
准如上人の志により、本願の明かされた教えを請い受け、弟子として列法を許された後、大内義隆は京都を後にする。多田羅守人も天台宗から浄土真宗に改宗したことで、寺を創建することを目指し、山口へ戻った後に現在の明教寺を西光寺(美東町大田)下寺古跡付近に創建することとなる。

その後、13世に至る間住職の相続が無いため、開基以来勲位を任された寺格などが無い。

記載:山口県管轄長門国先大津郡日置村 福正寺 釋了般の三男・釋了暁(第13世)調

2012(平成24)年に第16世住職釋貴和より第17世釋恵昇に継職され、現在に至る。

お経堂建立および山門、斎所

第14世田中義了が明治時代に建立。

1945(昭和20)年に9間4面の本堂と庫裏を焼失する。その後、厚狭の庄屋より自佛堂を買い、修復しつつ現在の本堂に至る。

1998(平成10)年に再建がなされ、現在の庫裏、斎所が完成する。

 

2012(平成24)年から2018(平成30)年に境内地の整備を行い、現在に至る。

鐘楼

現在の物は、1769(明和6)年、当時、明教寺の門信徒であった周防三田尻出身の佐内典忠、田中悟索、深田故吉、松原牧朝の4名が製作したもので、山口県内では他に作例が認められない。

高さ132.2センチ、鐘身96.6センチ、口径74.5センチの梵鐘で、四方の縦帯の上部蓮華上に「南無阿弥陀仏」の6字名号とその下に特国天・広目天・多聞天・増長天の四天王を陽鋳してある。

​太平洋戦争時には、地区の警鐘として使用した。

供出命令に対しても、鐘楼を門信徒が守り、供出命令を拒否したため、現在の​鐘楼は創建当時の物である。

昭和後期に修復・補修がなされた。

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